宗教法人圓恵寺

お寺の紹介 静岡県富士宮市 | 日蓮宗 妙境山 圓恵寺

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〒419-0314 静岡県富士宮市大久保216

お寺のご紹介

宗祖日蓮聖人身延在山九年間の教化に浴して

駿河法華嫡流之殿堂

圓恵寺(エンネジ/ENNEJI)の所在は、富士山南西麓に位置する旧富士郡芝川町で人口一万に満たない町村です。平成22年に富士宮市に編入合併をしました。日蓮聖人は文永11年(1274)5月身延山に入られました。日蓮聖人のお弟子には、この地に縁深き白蓮日興上人はじめ伊予公日頂上人、またお弟子を通じて大勢の信者の方々がおりました。中でも駿河の信者は供養の品々を身延へ届けるとともに、篤き信仰の手ほどきを受けました。
日蓮聖人はこうした人々に対し「かえすがえす するが(駿河)の人々みな同じ御心と申させ給い候へ」(『浄蓮房御書』『三澤抄』)と仰せになり、駿河法華信仰を宗祖からご先祖に、ご先祖から私たちに子子孫孫受け継がれているところであります。

妙境山円恵寺(エンネジ/ENNEJI)の由緒・縁起

歴代の住職が護ってきた大事な教えを受け継いでおります

妙境山円恵寺(エンネジ/ENNEJI)は芝川中流右岸の大久保(旧芝川町)にある日蓮宗寺院です。西山(にしやま)斜面に立ち、門前に段々と広がる田畑や、川向こうに横たわる山林を眺めることができます。

永禄8年(1565)3月18日に真言宗寺院として開創された、と伝えられています。16年後の天正9年(1581)4月、安居山東漸寺8世日教上人の教化により日蓮宗へ改めました。

その後46年間は無住の状態でしたが、寛永4年(1627)月代(げんだい)の郷士が堂宇を再建し、安居山東漸寺を退いた日教が転住しました。
円恵寺には、月代に光明庵という末寺がありました。庵主塚本玄海上人は請われて明治38年円恵寺第33世を継承しました。光明庵は、その後昭和9年(1934)に神奈川県藤沢市に移転し、寺号も光妙寺と改めました。
以来、現在に至るまで歴代の住職が護ってきた大事な教えを伝えております。

妙境山ギャラリー

妙境山円恵寺(エンネジ/ENNEJI)の歴史をふりかえります

昭和30年代の全景

昭和6年本堂改修

改修後

第33世一妙院日敬上人

第34世智教院日得上人

第35世一道院日淳上人

昭和28年発会 
大久保めぐみ会

修養道場さながら…

35世日淳上人
上段右端

遊歩道から富士山を望む

遊歩道

御宝前

羽鮒(月代)光明庵跡

光明庵移転(昭和9年)
藤沢市へ「光妙寺」寺号公称

富士市本蔵寺丸茂湛祥師筆画

妙境山円恵寺 寺宝のご紹介

寺寶

(1269~1342)
肥後阿闍梨・肥後房。日蓮宗最初の京都弘通を行い、妙顕寺を拠点として京都日蓮教団発展の基礎を築いた、下総(千葉)平賀の豪族平賀忠晴の子。母は後年妙朗尼といい、上殿と称された。建治元年(1275)7歳の時、六老僧の一人日朗の門に入る。のち身延に上り日蓮聖人の孫弟子となって経一丸(麿)の名を賜い、器許されて玄旨の本尊を授与された。以降、晩年の聖人のもとで行学い励み、聖人臨終の時には帝都弘通、宗義天奏を委嘱された。

 

(1407~88)
久遠成院と号し、「なべかむり日親」として有名な室町・戦国時代の名僧。応永14年(1407)に、上総国埴谷(千葉県山武郡山武町埴谷)の埴谷氏一族に生まれる。幼少のときに、在地の支配者たる埴谷左近将監(法名法義)の養子となり、埴谷氏が帰依していた中山法華経寺(千葉県市川市)の日英の門に入った。日親は法難に明け暮れた60年にもあまる伝道生活を省みている。京都・鎌倉をはじめ東西南北を走きまわり、30有余の寺院を建立し、しばしば将軍や守護に対して諫暁を行った。日親のことを「なべかむり日親」とよく呼ばれる。彼が幕府に捕えられて牢につながれた時、まっ赤に焼けたなべを頭からかぶせられたという伝説によって、こう名づけられたのである。

 

(1599~1666)
字は文嘉、霊鷲院と号す。京都立本寺第20世貫首。近世初期の代表的布教僧。江村久茂の三男として京都に生まれる。八歳で慧光寺日玄について出家。17歳の時、京都松ヶ崎檀林に学び、次いで求法院檀林、関東飯高檀林で修学。31歳で小浜長源寺住職となり、翌寛永7年(1630)から同17年まで九州肥前本経寺・妙本寺を拠点に九州地区を布教。また寛永7年には北陸金沢にも布教した(『本化別頭仏祖統記』)。かくて京都求法院檀林化主となる43歳に至るまで、諸国を布教して廃寺を興し、説法7000余座におよんだという。正保4年(1647)には京都立本寺第20世貫首となる。日審49歳の時である。立本寺貫首となって以降、その布教はいっそう活発となり「法を演ること一万余座、席上の法譚又一万余座、親ち曼荼羅を書すること十万余幅、受法の者九万余人」という。

(生年未詳~天徳2年・958)
平安中期の貴族で歌人。藤原北家良門流、中納言、藤原兼輔の次男。官位は従五位上・紀伊守。三十六歌仙の一人。

※外多数有、例年八月十七日お虫干し

 

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