令和4年春季彼岸
2022.3/18~24
コロナ渦中お見舞い申し上げます。今年もやってきましたお彼岸。
一昨日深夜の地震には驚きました。またウクライナへの武力侵攻と世の中はいつも不安と恐怖の連続です。こうした世間の悩みに憂い嘆くばかりではいけないと仏教は「彼岸」への精進という心がけを示してくれました。
仏教は、この世の苦しみ、悲しみなどをしっかり受け止めて、どうしたらこれを少しでも乗り越えていけるようなパワーを養う教えです。「どうして、私だけがこんなに苦しまなければいけないの…」誰でも一度は、こんなことを口にします。そんな時、法華経とお題目に触れてください。必ず救われます!
「彼岸」には、ご先祖と向き合い、私たちこちら側(此岸)の状況を報告して御仏の声を聞き、自分自身の生き方を自問自答する機会ではないかと思います。だから「彼岸」とは悟りの境地をのことを言うんです。21日のお中日を挟んで7日間。
今日が彼岸の入りです。お中日にはお仕事や学校がお休みの方が多いことでしょう。どうか天気の良いことを祈って、お墓参りを兼ねてマスク着用で春を満喫してください。
たのしみは空あたたかにうち晴れし 春秋の日に出でありく(歩く)とき
橘曙覧
2月の教えです
法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる
TVのコマーシャルで「雪が解けたら何になる?」というのがありました。答えは「水」ではなくて「春」が正解でした。なるほど! 間違いはないですが、そこまでは気がつかない人が多かったことと思います。法華経を信奉している人を、冬に譬えられたのは日蓮聖人ですが、正にその通りだと納得がいきます。
というのも、信仰というのは日々の積み重ね、日常生活すなわち信仰生活を送ることをいいます。困った時の神仏が頼りでは困ります。ですから当然、辛いときも良いときも変わらずに行うことが大事だということです。そうしますと法華経つまりお題目を心からお唱えする毎日こそが、必ず自分自身を好い方向へ導いてくれるものです。
今年は、格別に冬を感じます。寒さだけでなく、コロナ禍もあるからでしょうか…。こうしたときだからこそ「休眠打破」よろしく、極寒の条件の中でもエネルギーを蓄えて春に備える冬芽のように万全の準備は必要と言えましょう。季節の移ろいに逆らって冬が逆行することは決してないのです。必ず次にやってくるのは春に間違いないのですから、信じて仰ぐことはかけがえのない大切なことであることに気がついていただければと念じております。 合掌
令和壬寅(壬寅)元旦に懸ける!
年頭にあたり新春を慶祝申し上げます
コロナ禍の中、様々な想いで新年を迎えましたこと皆様方の心中いかばかりと拝察申し上げます。新年早々に「コロナ」を口にしなければならないこと、しかしこれを乗り切らなければ明るい未来は決して訪れはいたしませんので敢えて申し上げたいと存じます。
今年の干支は「壬寅」ということで、この意味するところは「生まれたものが成長する」あるいは「立ち上がる」という誠にポジティブな意気込みを示すように、たとえコロナ禍の収束がなかろうとも挫けない姿勢が大事であると存念申し上げます。
「菩提の因は複また無量なりと雖いえども、若し信心を説けば、すなわち己すでに攝盡しょうじんす」悟るとは多くの縁によって起こるとは古の教えではありますが、何よりも信心が具わってさえすれば自ずと身につくものと仏は仰ります。
今年も健康には十分に留意され、家族を想い、勤勉に社会に尽くし、自己を磨く日々のご精進を切にお願い申し上げます。
合掌
ことばは文に尽くさず 文は心を尽くし難き
2021 師走
今年も例年通り師走月を迎え、和尚は暮れのお檀家廻りに東奔西走しています。
圓恵寺は、少なくとも年に2度はお檀家宅をお邪魔しています。夏のお盆のご先祖供養と暮れは釜締めの回向です。昔、火を用いる竈(カマド)の前で「火伏」の荒神札を配りながら回向をしたそうですが、今や電気、ガスのご時世です。ましてや法服を着た和尚が台所でお経を読むのも妙な姿ですので、そこは敢えて夏同様お仏壇前で読経回向をさせていただいています。
夏は、ご先祖やご家族の話しなど。暮れは、この一年間が無事に過ごせたことや正月の過ごし方などが話題になります。最近多いのは、「わたしたちはいいけれど、息子たちはあてにならない」「嫁いだ娘たちには迷惑をかけたくないから…」「いずれ永代の供養をしたい」等々。確かに、これらのことを考えて決断しなければならない時はくるでしょう。
しかし、皆さんが思い詰めていること、ご夫婦だけで判断していることは、和尚と話すことによって案外穏便に解決されることが多いんですよ!
向かい合って話しましょう! 時間をかけて「ことば」を交わしましょう!!
傾聴って?
本当のやさしさって何だろう?
穏やかな日、公園で母親たちとその幼子等。二人こどもが転んで泣いています。こどもは母親の元へ。すぐさま母親は我が子を抱きかかえて「大丈夫? 痛くない痛くないから」。またもう一人の母親は「ダメ! 自分で起きなさい。泣くんじゃないの!」こどもは泣くのをやめて顔を上げて立ち上がりました。
二人の母親の対応。どちらが良くて悪いんでしょう…。どちらも母親らしい対処であると思います。お釈迦さまにとっての私たちは、みんな「一人の子」と仰っています。これはどういうことかというと、1人であろうが大勢でも同じように助けるということがお釈迦さまのお考えの基本にあります。平等ということであって、それ以上のことをおっしゃっています。
お釈迦さまが、まだお元気だったと時のこと。今から2500年も前の昔のことです。たくさんの人たちがお釈迦さまを頼って相談にきました。みんな同じように自分の苦しみを訴えて話をこんこんとしました。お釈迦さまはやさしい笑みをうかべてただ熱心にお話を聞いて、話し疲れたその人に向かって最後に「大丈夫だよ。またお話しをしにきなさい」とだけ言いました。
お釈迦さまは、まず人々にお話しをするまえに時間をかけて、まず苦しんでいるその人のことをジッと観察し、そしてよく話しを聞くことから始めました。それには、とても長い時間がかかりました。そうこうしているうちに、ある時その人は気がつくのです。その人だけじゃない。すべての人みんながみんなではありませんが、大方の人は気がついてお釈迦さまのお考えに従って自分自身の苦しみから抜け出し、また自分の行動を改めたりしていくのでした。
私たちは、お釈迦さまの時代も、今も実は変わっていないことに気がついた人がどれだけいるでしょうか? 法華経は、よく「譬えと因縁の話しばかりでわからない」と評価されがちですが計ることのできないほどの長い時間の中で、私たちのすぐそばにいるような感覚を持たせてくれます。だからいいのです。「大丈夫、いつもあなたのこと気にかけていますから」お釈迦さまはかならずあなたの近くにいます。
報恩
~恩送り~
人間誰しも心に深く刻み込まれた出来事があります。苦しいとき、悩んでいるとき、悲しいときに他人からのさりげない言葉や行動に救われることがある。これを「恩」と呼んでいます。
わたしたちの毎日は「あたりまえではないな」と気がつくときっていつでしょう。人間生きているかぎり誰だって苦しく辛いときは度々やってくるものです。そんなときこそ「ありがたいなあ!」と、もう一度自分を奮い立たせてくれる「人」や「モノ」あるいは「こと」があるでしょう。それを「恩恵おんけい」といいます。
今月は宗祖日蓮聖人のご入滅(亡くなってから)740回目の「報恩お会式ほうおんおえしき」がやってきます。日蓮聖人は、弘安5年(1282)10月13日東京都池上で亡くなります。遺言によって晩年9年間を過ごした山梨県身延の山中に墓を建ててほしいと切望しました。今も身延山の西谷の御廟におられます。
受けた「恩」をそのまま返すのは「恩返し」。「報恩」とは受けた人に限らず、一人でも多く、縁ある人たちに「恩を送る」こと。そして、その「恩」はめぐりにめぐって必ず自分や家族に還ってくるものなのです。
「Pay it forward」ペイフォワード。人から受けた親切を、また別の人にしてあげる。海を渡ったアメリカでも「恩送り」はありました。ある町のカフェであった「恩送り」、レジで支払いを済ませた人が、次に並んだ人の分まで支払いを済ませていたという善意がマスコミで取り上げられたことからはじまった善(正)の連鎖です。PAYとは払うの意味で、先に払うとか、次に渡せという意味ということです。ハリウッドでは映画にもなりました。
今は悲願
2021、9、16
生死の彼岸より 苦海の蒼波を凌ぎ
菩提の彼岸に到る時節なり
故にこの七日を彼岸と号す 宗祖のことば「彼岸鈔」から
今は辛い時です。「此岸」という現実世界から、心の拠り所である「彼岸」に到るために6ツの修行徳目があります。
1日目 「布施」ほどこし 自分より人のため
2日目 「持戒」いましめ 世の中をよく見る
3日目 「忍辱」がまん 本当のやさしさの意味を知る
4日目 「精進」はげむ 小さなことからはじめてみる
5日目 「禅定」おちつき 評価と反省
6日目 「智慧」かしこさ 自信になる
7日目 明日からの日々に明るい希望を!
難しく考えずに、今自分にできる行いを一日に一つ、一週間で挑戦してみましょう。
まだまだコロナ禍は当分続きそうですが、もう一踏ん張り共に頑張りましょう!
明鏡
2021.7.3
「濁水心なけれども 月を得て自ずから清すめり」 宗祖のおことば『四信五品鈔』から
どんなに汚れた水であっても夜の月を映すことができる、これこそ環境に左右されることのない私たちの清い心のことをいう。
もう少し解釈を進めると、誰にも必ず具わっている「心こころ」は鏡に譬える。この心の鏡はいつも磨かれていたい。なぜならば自らの姿を常に映していたいからだ。人は、日常に鏡を幾度となく見る。ただし、「冥くらやみ」であっては見えるモノも見えない。これではどんなに鏡を磨いたとしてもいたし方ないこと。だからよく「冥土めいど」といわれる暗闇から私たちは抜け出すために頼りになる光明を見出す努力を怠らぬよう心がけなければなりません。
今、コロナ禍というこれまでにない苦しみの真っただ中にいる私たちこそ、世の中のおかしな風潮に左右されず自分の心に仏祖(釈尊と宗祖)の教えを頼りに訊いていきたいものです。
7月8月はお盆が巡ってきます。
今月のおしえ
明けの冥城
2021 春季彼岸中日
「逍遥」で彼岸7日間の中日を除いた6日間に六波羅蜜を説かせていただくので、ここでは久しぶりに今月のお話しを手掛けたいと思います。
今朝は、起床午前3時15分。本日拝読の御経と御妙判について約2時間ほど紐解く。本日からは『化城喩品』をいただく。人生長い道のりを歩むには、息継ぐ癒しが必要かもしれない。このおしえは一人の有能なリーダーを中心とした一行が、宝所(安楽の地)を目指して進むのだが長い困難な行く手に疲れ果てた人たちは、前に進むことをためらい来た道を戻ろうとする。リーダーは、そんな人たちに化城(オアシス)を提供して慰める。
かりの屋にしばし息むしるべあれば つひに真の道に来にけり
遠くて近いもの、それが真理である!
「ここは宝所ではない! 本当の落ち着くところはすぐこの先にある。さあもう少しがんばろうじゃないか!」
寺の参道の先にあるのは化城、それとも宝所? 冥城でしょ!!
到彼岸
2020.9.19
「到彼岸とうひがん」と書いて、その語源はサンスクリット語の「パーラミター」に由来する。これを漢訳語に表せば「波羅蜜多はらみった」というわけです。
日本古来で独特の風習? 日常生活すなわち信仰生活に準拠した日本人の心の在り方がここにもうかがい知れる。尊い習慣なのです。
「到彼岸」とは、迷いのこちら(此岸しがん)から、悟りのむこう(彼岸ひがん)に渡るということで、そのために六つの修行徳目が設定されているのです。今日は彼岸の入りです。今日から七日間。一日一つ、六日で六つを攻略して七日に向こう岸、悟りの境地に至るわけなのです。本日から一つずつ念頭に、このことを念じつつできるかぎり「そのような心持ち」に近づけるよう心がけて過ごしましょう。
六波羅蜜 お彼岸7日間で克服したい六つのこと
布施(ふせ) 人にやさしく
持戒(じかい) 自分にきびしく
忍辱(にんにく) がまんする
精進(しょうじん) なまけない
禅定(ぜんじょう) いつもおなじ気持ちでいれば
智慧(ちえ) これからも強く生きることができるようになる
近所で評判の婆さんがいた。「こらあー!」今日も村の子供たちを叱っては恐がられ、奥さん連中にはもっぱら手厳しい。
齢90歳になろうが百姓も現役だ。いつも小声で何かつぶやきながら鍬をふるう。「生きているうちは、働かなきゃバチがあたる」が口癖。
婆さんが亡くなった。葬式は大勢の人が参列した。村中の子どもたちや嫁さん連中も涙のお別れをする。遺影の婆さんは笑っていた。参列者は口々に「いい人だった」「子供たちが好きで優しかった」「みんな世話になった」婆さんは、村のみんなに慕われていたのだった。
通夜の最後に長男が挨拶をした「母はこの地が好きで、村の人たちが好きでした。畑に出ている時はロッパラミツ、フセ、ジカイ、ニンニク…ナンミョ-ホ-レンゲ-キョ-」とお寺で教わったことをいつも口にしていました。
婆さんは六波羅蜜を一生かけて見事に貫いたのだった!
コロナ禍中、9月は敬老と彼岸が尊いなあ!
お盆 コロナ禍を越えて
2020 8月
身延山朝のお説教1
正式には「盂蘭盆うらぼん」といいます。インドのことばで、ullanbanaウランバ-ナ、意味は「倒懸とうけん」逆さに吊るされた苦しみということです。私たちが、一年に一度ご先祖を迎えてする習慣ですが、今年は特別なお盆になりそうです。 というのも、そもそもお盆は多くの霊に供養することです。多くの霊とは、自分の家のご先祖だけではない、九州や東北地方の集中豪雨で失われた尊い「いのち」、コロナ禍で家族にも看取られず亡くなった人たち、もう少し前には東日本大震災や原発で亡くなった多くの「いのち」です。さらには、被災されたった一人きりになってしまった方、つまり苦しんで生きていかねばならない人たち(生者の魂魄(せいじゃのこんぱくと私はお呼びします)のことも含めて、13日から16日までの4日間、回向を捧げるわけなのです。
身延山朝のお説教2
コロナ禍によって、私たちの生活様式は大きく変えていかなければならないようです。コロナウイルスは以前から、この地球上に存在はしていたようですが某国のあまりにも無謀な人々の振る舞いによって「新型コロナウイルス COVID-19」が発生してしまったのでした。
今、日本はコロナ禍第2波を迎えています。都内では1日470人を超える感染者を数えます。今後、このような悪循環を私たちは阻止できることが果たして可能でしょうか…。
「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。これを以て魔来たり鬼来たり、禍起こり難来る。」
宗祖日蓮聖人のことばです。
世の中が正しい教えに背いて、人々もみんな悪法に傾いてしまっているから、諸々の善神は、この世から去ってしまい、聖人と云われる救世主ももやは此処には帰って来ないでしょう! だから世界は悪鬼魔人鬼人(目には見えない怖ろしい現象)が押し寄せて、世界中は多くの災難が起こるようになってしまう。と、仰せになられたのでした。
それでは、正しい教えとは何でしょう。悪法とは一体何を言うのでしょう。 このコロナウイルス感染拡大という中で、私たちが「今」本当にしなくてならないことは何かを問いただす時だと拝察します。そこで、正しい教えとは何か「世の中の人々の正しい考えと行動」です。当たり前のようで、実はこれが難しいから社会も人々も混乱をしているのでしょう。日蓮という人は、750年もの前に、社会と為政者(幕府)に対してこれを進言したのでした。
つづく
※写真はイメージです。今は3密厳禁ですからとてもとても…。
地元 ~勘考それぞれに~
連載(10)
私は高校1年生の夏休みに僧侶になるための1歩を踏み出した。「得度(とくど)」という儀礼を父親がしてくれた。この時より、父親は私にとっては「師匠」と呼ばれる存在となる。というよりは、私が父親の弟子になったという言い方が正しい。
この儀礼は、俗にいう出家(しゅっけ)ということで、本来の仏門を目指す者の通過点のことをいう。ある日曜日のこと。朝から檀家の人たちや、お坊さんが集まってきた。親戚の叔父や叔母、従兄たちも来た。「得度式」という法要に参列するためだった。両親と並んで本堂に座り法要は始まった。
私は、はじめ学生服を着ていたが、法要の冒頭で剃刀を頭に当てられ、白い着物に着替え改めて本堂に座った。数珠(じゅず)を与えられ、両親の前に額ずき何やら今日のこの日のために覚えた言葉をぎこちない合掌のポーズで口にする。
「三界の中に流転し、恩愛断ずるこ能わず、恩を棄て無為に入るは、真実の報恩なり」という文言である。この日を境に、育てていただいた恩を感じつつも、それを振り払って仏門に入る決心をしたので、何卒お許しください。人は生まれて死んでゆく無常の世の中をさまよう愚かな存在ではあるが、今日こうして出家することが何よりもの真実の報恩であると確信しております。どうぞご安心ください。と、このような内容をことばにしたのであった。